『風の歌を聴け』村上春樹
ストーリーは、Wikipediaによると『20代最後の年を迎えた「僕」は、アメリカの作家デレク・ハートフィールドについて考え、文章を書くことはひどく苦痛であると感じながら、1970年の夏休みの物語を語りはじめる。』というもの。
私はAmazonにある(たぶん正式な)説明よりも、こちらが好みだ。
私が村上春樹の本を読むのはこれが10冊目くらい、あまり読んでないが全く読んでないということもない数だ。
本作は評価の良いデビュー作「らしい」という印象があったが、読んでみると今までで一番わからなかった。
つまらないというわけではなく、よくわからない。
そこで、いくつかの書評、レビューサイトなどをまわって理解してみようと思った。
(同じ本を読んだ人の感想や、それに付随する情報を部屋に居ながら調べられるというのは、とても良い時代になったものだ。)
それらをいくつか読むと、評価が良いか悪いかでいえば、やはり良い方だった。
村上春樹は熱心なファンも多く、そういうサイトには細かい仕掛けの解説や、さまざまなエピソードが書かれている。
中でも最も大きな仕掛け、デレク・ハートフィールドについては、私も「ほぉ!」と驚かされたが、そこまで見ても、やはり「この作品はすばらしい」とはなかなか思えなかった。
小説は「こんな仕掛けがあって、このシーンはこういうことを暗示していて、この言葉はあれの暗喩で」など教えられても、心からの評価は変わらないものだ。
(とは言っても、今のようなインターネットが無い社会ではデレク・ハートフィールドという魔法は効果抜群だったと思うし、実際そうだったようだ。それだけでもすごい作品と言える。)
ここまで勉強したところで、やはり「四部作」を読んで再度評価(というかなんというか)をするしかないなと行き当たる。
1973年のピンボール、羊をめぐる冒険、ダンス・ダンス・ダンスまでだ。今もやもやしているものが、少しずつ形になっていけばと思う。
年内は積んでる本があるので、来年のどこかのタイミングで3作読むことにする。
結局本書のストーリーについては全く触れなかったのだが、あとがきを含めても160ページの短い話であるし、もやもやしてるいるし、本エントリはここで終わることにする。
上述のデレク・ハートフィールドについては『本書を読んだ後に』Wikipediaなどを見て欲しい。
デレク・ハートフィールド - Wikipedia
悲鳴と嘔吐と技術記事
最近話題になっているこちら。
普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。 - 真性引き篭もり
私はきっと、この方の文章を初めて読んだのだと思う。
第一印象は、ああ、これはすごいなぁと。明らかに「本物」なのに、今まで見つけられなかったのはなんでだろう?と思った。
こういうパワーのある記事は私はとても好きなのだ。
その後、各所の反応を見ていると久しぶりの記事だったらしい。なるほど。
で、その反応というのがまたすごい方々の、すごい内容だった。
件の記事そのものについてというよりも、そもそも書くとはどういうことかという話になっている。いくつか引用させていただく。
長い? そりゃときどきは長いでしょうよ。つーか長いとか短いとかどうでもいいのよ。 スカスカ? 違うよ。趣旨がどうとかいう問題じゃないの。俺らは真性さんがロックしてる現場でその歌声を聞いてりゃいいのよ。 マジキチ? あたりまえだろうが。狂ってナンボっすよ。絶叫なんざ悲鳴でありゃあるほどかっこいいんすよ。まともな言葉なんざいらねえよ。
「ネットの片隅に咲くドクダミの花の匂い」 - シロクマの屑籠
ここまで人事のように書いてきたが、この“シロクマの屑籠”なるblogも、ある程度まで日向に適応してしまった、と思う。昔は「嘔吐」などと称し、情念丸出しの文章を、見境無く連投していたように思うが、最近はそういうことをあまりしない
この悲鳴とか嘔吐というのは、つまりパワーであって、そしてブログの価値とは純粋にそのパワーであると思う。
呪詛でも金(カネ)でも、きっかけはなんでもいいが、その溢れるパワーが重要であって、知性やら理論なんてのは必要無い。
ただ、そういうパワーをぶん投げ続けられる人というのは本当に一握り。ブロガーの上澄みの1%をすくい、更にそこから1%をすくうほどの割合。
だから私は、「書ける人は書ける人、書けない人は書けない人、はい終わり。」とずっと思っていたし、今回も自分でそう結論づけて終わろうとしていた。
それなのに今回このエントリを書いておこうと思ったのは、パワーをぶん投げ続けられないことに対する的確すぎる理由を見つけてしまったから。
私の考えてることはそう、まさにこれだよ。と言いたくなるほどピンポイントに。
こういう思いをもって、人は叫ばなくなり、吐かなくなる。
1996年、「僕達のインターネット」を指咥えて見ていた小学生の話 あるいは「真性引きこもり」という現代に生きながらえる呪詛について - mizchi's blog
2009年頃、「ミームの死骸」のはっしゅさんに煽られてブログを書き始めたのだが、僕は半角さんほど、世界にも、インターネットにも絶望出来なかったようで、粘着の相手するのに疲れて、無難な技術記事ばかり書くようになってしまった。技術記事は誰も不幸にしないので良い。
「技術記事は誰も不幸にしないので良い。」
そう、技術記事は誰も不幸にしない。
逆に言うと、パワーのある文章は誰かを不幸にする。というか、実際のところは『不幸になりたがっている人』がここぞとばかりに突っかかってくる。
私も15年ほど前、バカな高校生の頃からテキストサイトを作ってうだうだ顰蹙を買う文章を書いていたり、暇な大学時代にネットゲームをやって廃人を煽ったりしていたわけだが、結論としては上記のとおり「誰も不幸にしない記事」を書きたいと思うようになった。それも匿名で。
ちなみに、高校時代にやっていたテキストサイトは、半年ほど書いた頃、何故か同じ高校の女の子に見つかった。
15年ほど前なので、PCを持っている高校生というのはわりかしレアで(特に私の周りでは)、しかも無名のテキストサイト、もちろんリアルについてはぼかして書いていたのだが、ある日突然メールが来たのだ。
「◯◯高校ですよね?私もそうです。良ければメール下さい。」
なんのホラーかと思った。
1時間以内にサーバの中身を全部消した。
404 Not Found.
しかし安心はできない。今の時代と比べるほどではないが、データを取られていたらそもそも終わりである。しかたなく連絡を取ることにした。友好的に。
結局、なんら悪い人ではなく(むしろとても良い人だった)「メル友」として半年くらいメールをする仲になった。
同じ学年だが全く面識のない、元気な女の子だった。会話は数えるほどしかしなかったと思う。あまり覚えてない。
その後、大学のときにネトゲで廃人を煽ったときはそれよりも怖い目にあったわけだが、今回は割愛する。
ネット上に何か書いている人というのは、こんな風にいろいろなことがあって「誰も不幸にしないであろう記事」を書くようになっていくのだと思う。
考えてみると、バッファローマンくらいの超人強度がありそうなid:nakamurabashiさんも一時期「いろいろあって慌ててヤバい記事を消している」ようなことを書いていたことがあった。
私は「え、今さら?」と思ったが、そういうものなのだろう。
「スティーブ・ジョブズ1」読了
1を読み終わった。ジョブズの伝記ではあるが、私はウォズニアックが出てくる度に興奮した。
残念ながら、後半ではウォズはほとんど出てこない。その役割はジョン・ラセターが代わって引き受ける。
大きく見ると、前半はウォズのパトロンとして、後半はラセターのパトロンとして活動したことがジョブズの成功の素だった。
おそらく2ではそういう色が薄まり、ジョブズ自身の活動がメインとなっていくのだと思う。
ここでは、本筋とは違うが主にウォズに関する箇所について書いていく。
アタリのボーナス
ウォズは親から、エンジニアリングが世界で最も重要なものであること、正直であること、そして中庸が一番だということを教えられて育つ。
最初の有名なエピソードは、アタリでジョブズの仕事をウォズが手伝うシーンだろう。
ウォズは「複数のエンジニアが2〜3ヶ月かけてつくるゲーム」をたった1人、4日完徹で完成させる。
ただその天才性よりも「そのボーナスをジョブズがちょろまかした」というエピソードの方が有名で、それについてP101にいろいろと書かれている。
ウォズは「正直に言ってくれたらよかったのにとは思うよ。お金が必要だと言ってくれればぼくの分はあげたのに。彼は友達で、友達は助け合うものなんだから」と言っている。後述のIPOの件も含め、ウォズの人柄が表れている。
アップル設立
アップルIを作ったときも、ウォズはみんなにタダで配ろうと思っていた。
そこでジョブズが「売ったほうがいい」と言い、会社を作ることになる。
ウォズは当時貧乏だったが、お金が儲かるかどうかよりも、自分の会社が持てることに興奮する。
「自分たちがそんなことをすると思っただけで元気が出たよ。親友とふたりでいっしょに会社をはじめる。すごい。すっかりその気になったよ。やるしかないよね」
そしてウォズは電卓を売り、ジョブズは車を売ってアップルを設立する。
当時の二人がどんなものかはP115でロン・ウェインがこう言っている。
「まったく似てないふたりでしたが、パワフルなチームでした」 ジョブズは悪魔が憑いているのではないかと思うような言動をすることがあったが、逆にウォズはナイーブで、天使とたわむれているような人間だった。
かといって、ウォズは決して自分の能力に無自覚なわけではなく、役割分担をわかっていた。
ウォズの父が、ジョブズに「おまえはたいしたことをしていない。なにも作っていないじゃないか」と言うシーンがある。
ジョブズは泣きながら、パートナーシップを解消してもいいとウォズに提案するが、ウォズはそのままで良いと言う。
一方、さすがにギークらしく、ジョブズを相手に強く意見をいうこともあった。
アップルIIのとき、ジョブズは拡張スロットを2本にすると言ったが、ウォズは8本を主張した。
「ぼくが人と争うことはめったにない。でも、このときだけは違った。『どうしてもそうしたいのなら、どこかほかでコンピュータを手に入れろよ』って言ってやったんだ。」
開発者としては気持ちの良い言葉だ。こんなに良いものは自分以外に作れるわけがないというわけだ。
ただ、それに続けて「あのころのぼくは、こう言えるだけの立場にいた。でも、ずっとそうだったわけじゃない」とも言っている。
結局、アップルIIの拡張スロットは8本になる。
アップルのIPOのときも、ジョブズはとてもシビアだったが、ウォズは自分の株式を職位が高くない社員40人に安く売った。それは家を買えるくらいの額になった。
IPOの後は、あまりウォズの話は出てこなくなる。
その後
アップルIPO後、ジョブズは紆余曲折がありつつもマッキントッシュを作ることになる。
ウォズはしばらくアップルIIの部署で開発を続けるが、退職する(結局、アドバイザーとして留まることになる)。
ジョブズはアップルを追い出され、NeXT、ピクサーと活動の場所を変えていく。
NeXTでは結果的に失敗に終わり、ピクサーで資金が底を付きそうになる。
それでもジョブズはジョブズでありつづけ、ラセターとともにトイ・ストーリーを成功させる。
その間に結婚もするし、子供も生まれる。
そこまでが「スティーブ・ジョブズ1」で書かれている。
率直な印象を言うと、ジョブズはLSDもやるし風呂には入らないし嘘はつくし人の話を聞かない。
どうにもこうにもダメ人間という印象が拭えないが、強さがある。
ここぞというときの強さ、それに人を惹きつける力がある。
2は、アップルに戻るところから。ここからが本番だと思っているので、続けて、楽しく読んでいきたい。
初カキコなう。
ホントにjsつかえるのかー。
これはすごい。
「スティーブジョブズ」を読みはじめた
とても良い本だと思う。雰囲気としては「福翁自伝」のようだと感じる。
常識や決まりなどには捕われず自分がやりたいことをやる。その快活さと大きな志とが、福沢諭吉にも、ジョブズにもある。
読んでみて、私が意外だなと思ったのは大きく二つ、まずは「天才」では無かったこと。
リード大に入った頃はカリスマ性というほどのものは無く、後天的なものだということが書かれている。
もうひとつは、感情表現が下手だということ。
これは、意外ではないという人も多そうだが、ウォズのおやじにいろいろ言われて泣いてしまうところなど、クールとは程遠い人物であったようだ。
また、読んでいるとジョブズよりもウォズの方に感情移入してしまうところが多いのだが、エンジニアの大半はそうなんじゃないかなと思う。
ジョブズ関連の本を多く読んでいる人には「新しい内容はない」とも言われているようだが、私はそういう本は読んでいないし、楽しく読めている。
もちろん例の「祝辞」や、いくつものプレゼンテーションは見ているが、ちょうどそれが前提となって、すんなり読めている。
逆に、それらを見ていないのなら、その都度Youtubeを見ることになるのだろう。
あーだこーだ言わずに、まずは読んでおこうという本だと思う。
iPhone買ったら30番目くらいに入れるべき無料アプリ
勧められてるところを見たことがなくて、最近入れた。
いろんな意味でキラーアプリ。見るのが怖い。