南極の図書館

ペンギンが寝ていた…。

「スティーブ・ジョブズ2」読了

ジョブズ熱もいくらか冷めた頃ということで、書くには良い時期かな。
スティーブ・ジョブズの自伝『2』について。
『1』ではジョブズの幼少時代からネクストまで、主に人間性について書かれていた。
『2』ではアップルの復帰から、ジョブズの成し遂げた多くのことについて書かれている。

目次

・あるべき姿のキーボード
・アップルストア
選択と集中

あるべき姿のキーボード

『1』を読むとジョブズは変人を超えて、一般的にいう「どうしようもないヤツ」だと感じる。
ただ、一生を通して正しいものを作るという芯はブレず、情熱も最後まで失わなかった。

この学生に、マッキントッシュのキーボードにサインしてほしいと頼まれたジョブズは、自分が会社を追い出されたあと、マックに追加されたキーを外していいならと承諾。車の鍵を取り出すと、まず、かつて自分が拒否したカーソルキー、4つを取り除く。続いて、最上段に並ぶファンクションキー(F1,F2,F3……)も外してゆく。
「僕は、あるべき姿のキーボードを世の中に広め、世界を変えていきたいとおもっているんだ」
とまじめな顔で宣言すると、ジョブズは、見るも無残になったキーボードにサインした。(P23-24)

アップルに復帰する前のエピソードだが、これこそジョブズという人をよく表している。同時に、アップルが如何に迷走していたかも。
ジョブズには製品に対するビジョンがあり、ジョブズ抜きのアップルにはそんなものは無かった。
ただし、それではジョブズの方が正しいのかというと、一企業としてはそういうわけでもない。
事実『1』ではジョブズのビジネス上の失敗がいくつも書かれており、決して順風満帆ではないことがわかる。


ちなみに、ジョブズが関与しているはずの今のMacのキーボードにはカーソルキーもファンクションキーもある。
時の流れ、時の試練によって、今ではどちらも必要であると判断したのだろう。
今のMacの機能を考えると、それらがないと明らかにキーが足りなくなるし。
(Macではファンクションキーをコンビで押すことによって音量や画面の明るさの調節、音楽プレイヤーの操作などができる。)
私が知ってる中で、今買えてどちらもないのはHHKBProくらい。HHKBLiteにはカーソルキーがあって、私は重宝している。
参考 Happy Hacking Keyboard Lite2を買ったらWindows+Lが押せなくて - holyppの日記

アップルストア

本書でもう一つ取り上げたいのはアップルストアについて。
なぜなら、アップルのやっていることで、私が唯一納得できなかったものだからだ。
具体的には、銀座と渋谷にあるアップルストアの存在意義がわからなかった。


『誰が、わざわざ銀座や渋谷にまでいって、Macを買うんだよ』と思っていたのだ。


もしかして、儲かってるから道楽でやってるのではないかと思っていたくらいだ。
もちろんそれは間違いであり、アップルストアの存在意義と、その成り立ちについては『2』にしっかりと書かれている。
目的はやはり「わざわざ出向いてMacを買ってもらう」ためにあるわけではなかった。
私は郊外の地代の安いところに大きい店舗を構えたほうがいいと思っていたが、それに対する答えがそのまま書いてあった。

「ウチの製品を見に10マイルも運転させるのは難しくても、10フィート歩いてもらうことならできるはずだ」
「十分に入りやすい雰囲気を作れれば、通りかかったとき、興味を引かれて立ち寄るはずだ。製品を紹介するチャンスさえ得られればこっちのものさ」(P134)

これを見ると、これこそが「アップルらしい戦略」だと思えてしまうから不思議だ。
銀座や渋谷を歩く人が、ふらっと入ってくれればいい。『製品を紹介するチャンスさえ得られればこっちのものさ』ということだ。


そのアップルストア1号店は2001年5月19日、ヴァージニア州タイソンズコーナーにオープンした。
ジョブズはそのために店舗のプロトタイプを6ヶ月も作りこみ、そして壊し、また作り直した。
最初のプロトタイプは、パワーマック、iMaciBook、パワーブックと製品ラインごとの展示としていたが、そろそろ完成かという頃にロン・ジョンソンは「4種類のコンピュータを中心に製品を配置するのではなく、『人々がしたいであろうこと』を中心に配置するべきではないか」と訴える。
ジョブズは一度「6ヶ月も必死こいてやってきたのに、それを全部ぶん投げようというのか!」と声を荒げるが、後から「ロンが正しいのはあきらかだった」と言うようにオープンが遅れてもやり直すことを決める。

「我々は根本的な間違いを犯しているとロンは主張している。製品を中心にするのではなく、人々がしたいことを中心にレイアウトすべきというのが彼の考えだ。」(P139)

2000年の話だが、これは今でも通じるはずだ。
アップルストアは細部にもジョブズのこだわりが行き届いており、階段については特許を申請しているほど。
2010年にはジョブズが「この店は、単位面積あたりの売り上げで世界最高だ」と言うほどの店舗となった。


私が「道楽でやってんじゃないか」なんて思っていたのはとんでもない勘違いだったわけだ。
とはいえ、休日の銀座アップルストアは人が多すぎ、ごちゃごちゃしていてあまり行きたいものではないけれど。

選択と集中

最後にジョブズの選択と集中について。
ジョブズが復帰したときのアップルは製品の種類が多すぎた。
そこでジョブズは「友達にはどれを薦めるべきなんだい?」と尋ねる。すぐに答えが返ってこないことに対し、

「君たちは優秀だ。優秀な人間がこんなお粗末な製品に時間を無駄遣いしちゃいけない」(P87)

そしてホワイトボードに「田」と書き

「我々が必要とするのはこれだけだ」そう言いながら、升目の上には「消費者」「プロ」、左側には「デスクトップ」「ポータブル」と書きこむ。各分野ごとにひとつずつ、合計4種類のすごい製品を作れ、それが君たちの仕事だとジョブズは宣言した。(P88)

これがパワーマックG3、パワーブックG3、のちのiMac、のちのiBookとなるのだが、ここまでシンプルなメッセージを私は知らない。


他にも本書ではジョブズの最後の仕事まで、つまりiTunes、iPodそしてiPhone、iPadとクラウドについて、また闘病と家族についてもしっかりと書かれている。
大筋ではそうだろうなというところが多かったが、ここまで音楽が好きだということには驚く人もいるかもしれない。
ページ数も400を超え中身も濃いので、2011年の本としては一番だと思う。私は滅多にハードカバーの本は買わないのが、これは買って良かった。
『1』も読むべきだが、1冊だけというなら『2』の方が良いかも。


「スティーブ・ジョブズ1」読了 - holyppの日記

『風の歌を聴け』村上春樹

ストーリーは、Wikipediaによると『20代最後の年を迎えた「僕」は、アメリカの作家デレク・ハートフィールドについて考え、文章を書くことはひどく苦痛であると感じながら、1970年の夏休みの物語を語りはじめる。』というもの。
私はAmazonにある(たぶん正式な)説明よりも、こちらが好みだ。


私が村上春樹の本を読むのはこれが10冊目くらい、あまり読んでないが全く読んでないということもない数だ。
本作は評価の良いデビュー作「らしい」という印象があったが、読んでみると今までで一番わからなかった。
つまらないというわけではなく、よくわからない。


そこで、いくつかの書評、レビューサイトなどをまわって理解してみようと思った。
(同じ本を読んだ人の感想や、それに付随する情報を部屋に居ながら調べられるというのは、とても良い時代になったものだ。)
それらをいくつか読むと、評価が良いか悪いかでいえば、やはり良い方だった。
村上春樹は熱心なファンも多く、そういうサイトには細かい仕掛けの解説や、さまざまなエピソードが書かれている。
中でも最も大きな仕掛け、デレク・ハートフィールドについては、私も「ほぉ!」と驚かされたが、そこまで見ても、やはり「この作品はすばらしい」とはなかなか思えなかった。
小説は「こんな仕掛けがあって、このシーンはこういうことを暗示していて、この言葉はあれの暗喩で」など教えられても、心からの評価は変わらないものだ。
(とは言っても、今のようなインターネットが無い社会ではデレク・ハートフィールドという魔法は効果抜群だったと思うし、実際そうだったようだ。それだけでもすごい作品と言える。)


ここまで勉強したところで、やはり「四部作」を読んで再度評価(というかなんというか)をするしかないなと行き当たる。
1973年のピンボール、羊をめぐる冒険ダンス・ダンス・ダンスまでだ。今もやもやしているものが、少しずつ形になっていけばと思う。
年内は積んでる本があるので、来年のどこかのタイミングで3作読むことにする。
結局本書のストーリーについては全く触れなかったのだが、あとがきを含めても160ページの短い話であるし、もやもやしてるいるし、本エントリはここで終わることにする。




上述のデレク・ハートフィールドについては『本書を読んだ後に』Wikipediaなどを見て欲しい。
デレク・ハートフィールド - Wikipedia


悲鳴と嘔吐と技術記事

最近話題になっているこちら。
普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。 - 真性引き篭もり
私はきっと、この方の文章を初めて読んだのだと思う。
第一印象は、ああ、これはすごいなぁと。明らかに「本物」なのに、今まで見つけられなかったのはなんでだろう?と思った。
こういうパワーのある記事は私はとても好きなのだ。


その後、各所の反応を見ていると久しぶりの記事だったらしい。なるほど。
で、その反応というのがまたすごい方々の、すごい内容だった。
件の記事そのものについてというよりも、そもそも書くとはどういうことかという話になっている。いくつか引用させていただく。


はてなダイアリー

長い? そりゃときどきは長いでしょうよ。つーか長いとか短いとかどうでもいいのよ。

スカスカ? 違うよ。趣旨がどうとかいう問題じゃないの。俺らは真性さんがロックしてる現場でその歌声を聞いてりゃいいのよ。

マジキチ? あたりまえだろうが。狂ってナンボっすよ。絶叫なんざ悲鳴でありゃあるほどかっこいいんすよ。まともな言葉なんざいらねえよ。


「ネットの片隅に咲くドクダミの花の匂い」 - シロクマの屑籠

ここまで人事のように書いてきたが、この“シロクマの屑籠”なるblogも、ある程度まで日向に適応してしまった、と思う。昔は「嘔吐」などと称し、情念丸出しの文章を、見境無く連投していたように思うが、最近はそういうことをあまりしない


この悲鳴とか嘔吐というのは、つまりパワーであって、そしてブログの価値とは純粋にそのパワーであると思う。
呪詛でも金(カネ)でも、きっかけはなんでもいいが、その溢れるパワーが重要であって、知性やら理論なんてのは必要無い。


ただ、そういうパワーをぶん投げ続けられる人というのは本当に一握り。ブロガーの上澄みの1%をすくい、更にそこから1%をすくうほどの割合。
だから私は、「書ける人は書ける人、書けない人は書けない人、はい終わり。」とずっと思っていたし、今回も自分でそう結論づけて終わろうとしていた。



それなのに今回このエントリを書いておこうと思ったのは、パワーをぶん投げ続けられないことに対する的確すぎる理由を見つけてしまったから。
私の考えてることはそう、まさにこれだよ。と言いたくなるほどピンポイントに。
こういう思いをもって、人は叫ばなくなり、吐かなくなる。


1996年、「僕達のインターネット」を指咥えて見ていた小学生の話 あるいは「真性引きこもり」という現代に生きながらえる呪詛について - mizchi's blog

2009年頃、「ミームの死骸」のはっしゅさんに煽られてブログを書き始めたのだが、僕は半角さんほど、世界にも、インターネットにも絶望出来なかったようで、粘着の相手するのに疲れて、無難な技術記事ばかり書くようになってしまった。技術記事は誰も不幸にしないので良い。


「技術記事は誰も不幸にしないので良い。」


そう、技術記事は誰も不幸にしない。
逆に言うと、パワーのある文章は誰かを不幸にする。というか、実際のところは『不幸になりたがっている人』がここぞとばかりに突っかかってくる。
私も15年ほど前、バカな高校生の頃からテキストサイトを作ってうだうだ顰蹙を買う文章を書いていたり、暇な大学時代にネットゲームをやって廃人を煽ったりしていたわけだが、結論としては上記のとおり「誰も不幸にしない記事」を書きたいと思うようになった。それも匿名で。


ちなみに、高校時代にやっていたテキストサイトは、半年ほど書いた頃、何故か同じ高校の女の子に見つかった。
15年ほど前なので、PCを持っている高校生というのはわりかしレアで(特に私の周りでは)、しかも無名のテキストサイト、もちろんリアルについてはぼかして書いていたのだが、ある日突然メールが来たのだ。


「◯◯高校ですよね?私もそうです。良ければメール下さい。」


なんのホラーかと思った。
1時間以内にサーバの中身を全部消した。


404 Not Found.


しかし安心はできない。今の時代と比べるほどではないが、データを取られていたらそもそも終わりである。しかたなく連絡を取ることにした。友好的に。
結局、なんら悪い人ではなく(むしろとても良い人だった)「メル友」として半年くらいメールをする仲になった。
同じ学年だが全く面識のない、元気な女の子だった。会話は数えるほどしかしなかったと思う。あまり覚えてない。


その後、大学のときにネトゲで廃人を煽ったときはそれよりも怖い目にあったわけだが、今回は割愛する。
ネット上に何か書いている人というのは、こんな風にいろいろなことがあって「誰も不幸にしないであろう記事」を書くようになっていくのだと思う。


考えてみると、バッファローマンくらいの超人強度がありそうなid:nakamurabashiさんも一時期「いろいろあって慌ててヤバい記事を消している」ようなことを書いていたことがあった。
私は「え、今さら?」と思ったが、そういうものなのだろう。

はてなダイアリーの移行について

もともとダイアリーやってる人の移行とかはどう考えられてるのだろうか。

記事のインポートはすぐできるけど、はてブRSS登録が0からというのはちょっとさみしい気もする。

「スティーブ・ジョブズ1」読了

1を読み終わった。ジョブズの伝記ではあるが、私はウォズニアックが出てくる度に興奮した。
残念ながら、後半ではウォズはほとんど出てこない。その役割はジョン・ラセターが代わって引き受ける。
大きく見ると、前半はウォズのパトロンとして、後半はラセターのパトロンとして活動したことがジョブズの成功の素だった。
おそらく2ではそういう色が薄まり、ジョブズ自身の活動がメインとなっていくのだと思う。
ここでは、本筋とは違うが主にウォズに関する箇所について書いていく。

アタリのボーナス

ウォズは親から、エンジニアリングが世界で最も重要なものであること、正直であること、そして中庸が一番だということを教えられて育つ。
最初の有名なエピソードは、アタリでジョブズの仕事をウォズが手伝うシーンだろう。
ウォズは「複数のエンジニアが2〜3ヶ月かけてつくるゲーム」をたった1人、4日完徹で完成させる。
ただその天才性よりも「そのボーナスをジョブズがちょろまかした」というエピソードの方が有名で、それについてP101にいろいろと書かれている。
ウォズは「正直に言ってくれたらよかったのにとは思うよ。お金が必要だと言ってくれればぼくの分はあげたのに。彼は友達で、友達は助け合うものなんだから」と言っている。後述のIPOの件も含め、ウォズの人柄が表れている。

アップル設立

アップルIを作ったときも、ウォズはみんなにタダで配ろうと思っていた。
そこでジョブズが「売ったほうがいい」と言い、会社を作ることになる。
ウォズは当時貧乏だったが、お金が儲かるかどうかよりも、自分の会社が持てることに興奮する。

「自分たちがそんなことをすると思っただけで元気が出たよ。親友とふたりでいっしょに会社をはじめる。すごい。すっかりその気になったよ。やるしかないよね」


そしてウォズは電卓を売り、ジョブズは車を売ってアップルを設立する。
当時の二人がどんなものかはP115でロン・ウェインがこう言っている。

「まったく似てないふたりでしたが、パワフルなチームでした」
ジョブズは悪魔が憑いているのではないかと思うような言動をすることがあったが、逆にウォズはナイーブで、天使とたわむれているような人間だった。


かといって、ウォズは決して自分の能力に無自覚なわけではなく、役割分担をわかっていた。
ウォズの父が、ジョブズに「おまえはたいしたことをしていない。なにも作っていないじゃないか」と言うシーンがある。
ジョブズは泣きながら、パートナーシップを解消してもいいとウォズに提案するが、ウォズはそのままで良いと言う。


一方、さすがにギークらしく、ジョブズを相手に強く意見をいうこともあった。
アップルIIのとき、ジョブズは拡張スロットを2本にすると言ったが、ウォズは8本を主張した。

「ぼくが人と争うことはめったにない。でも、このときだけは違った。『どうしてもそうしたいのなら、どこかほかでコンピュータを手に入れろよ』って言ってやったんだ。」


開発者としては気持ちの良い言葉だ。こんなに良いものは自分以外に作れるわけがないというわけだ。
ただ、それに続けて「あのころのぼくは、こう言えるだけの立場にいた。でも、ずっとそうだったわけじゃない」とも言っている。
結局、アップルIIの拡張スロットは8本になる。
アップルのIPOのときも、ジョブズはとてもシビアだったが、ウォズは自分の株式を職位が高くない社員40人に安く売った。それは家を買えるくらいの額になった。
IPOの後は、あまりウォズの話は出てこなくなる。

その後

アップルIPO後、ジョブズは紆余曲折がありつつもマッキントッシュを作ることになる。
ウォズはしばらくアップルIIの部署で開発を続けるが、退職する(結局、アドバイザーとして留まることになる)。
ジョブズはアップルを追い出され、NeXT、ピクサーと活動の場所を変えていく。
NeXTでは結果的に失敗に終わり、ピクサーで資金が底を付きそうになる。
それでもジョブズはジョブズでありつづけ、ラセターとともにトイ・ストーリーを成功させる。
その間に結婚もするし、子供も生まれる。
そこまでが「スティーブ・ジョブズ1」で書かれている。


率直な印象を言うと、ジョブズはLSDもやるし風呂には入らないし嘘はつくし人の話を聞かない。
どうにもこうにもダメ人間という印象が拭えないが、強さがある。
ここぞというときの強さ、それに人を惹きつける力がある。
2は、アップルに戻るところから。ここからが本番だと思っているので、続けて、楽しく読んでいきたい。


「スティーブジョブズ」を読みはじめた

とても良い本だと思う。雰囲気としては「福翁自伝」のようだと感じる。
常識や決まりなどには捕われず自分がやりたいことをやる。その快活さと大きな志とが、福沢諭吉にも、ジョブズにもある。


読んでみて、私が意外だなと思ったのは大きく二つ、まずは「天才」では無かったこと。
リード大に入った頃はカリスマ性というほどのものは無く、後天的なものだということが書かれている。
もうひとつは、感情表現が下手だということ。
これは、意外ではないという人も多そうだが、ウォズのおやじにいろいろ言われて泣いてしまうところなど、クールとは程遠い人物であったようだ。
また、読んでいるとジョブズよりもウォズの方に感情移入してしまうところが多いのだが、エンジニアの大半はそうなんじゃないかなと思う。


ジョブズ関連の本を多く読んでいる人には「新しい内容はない」とも言われているようだが、私はそういう本は読んでいないし、楽しく読めている。
もちろん例の「祝辞」や、いくつものプレゼンテーションは見ているが、ちょうどそれが前提となって、すんなり読めている。
逆に、それらを見ていないのなら、その都度Youtubeを見ることになるのだろう。


あーだこーだ言わずに、まずは読んでおこうという本だと思う。